Virtual朦朧

なんでも書くぞ!ツイッターの呟きが長文になったものと大きな変わりはありません。

おじさんとおばさんの駄菓子屋、のれん。

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

近所の駄菓子屋ののれんがいつの間にか替わっていた。以前は赤色ののれんだった気がするが、青色ののれんになっていた。中学時代は近くの道を毎日通っていたが、高校に入ってからその道を通ることはなくなった。なのでいつから替わっていたのかはわからない。毎日通っていた頃にのれんが替わるという大きな変化があったらさすがに気づくはずだ。しかしそんなことは変化は記憶にないので、多分それ以降に替えられたのだろう。

その駄菓子屋は、おじさんとおばさんがやっているとても小さなお店だ。入り口も狭く、店内も三、四本歩けばすべてのお菓子を見ることができてしまうくらいだ。その駄菓子屋はもんじゃ焼きを食べることができて、奥には鉄板が二つあった。
小学校時代に、友達と遊んだ日にほぼ毎回寄った。とくにその駄菓子屋に面白いものがあるわけでも、行くたびに品揃えが変わり珍しいものがあるわけでもなかったが、毎回行っていた。なぜならそれ以外にお店として行くところが一つもなかったからだ。
駄菓子屋付近は住宅街なので、その付近の狭い範囲に公園は複数あった。三つもある公園だったが、一つは遊具もなく、公衆トイレと謎の塔だけ、もう一つはなんだか怖い感じ(何が怖かったんだろう?よく覚えていないけど、なんだか寂しい感じがした)がして、遊びに行く公園は一つだけだった。その公園は、三つの公園のなかで一番新しく、なにより人が多かったし、同じクラスの子の家がとても近くにあったので、なんとなく安心して遊べたんだと思う。
駄菓子屋で駄菓子を買って、その公園に行く。ただそれだけの放課後遊びだった。駄菓子屋で持つ、二枚の百円玉は恐ろしいくらい輝いていたし、特別感があった。駄菓子屋で200円も持っていたら、そりゃあ、富豪ですよ。富豪。
そんな日々も、数年すれば勝手に終わってしまった。中学生になって、定期テスト、部活動、なんだかんだしているうちに、よく遊んでいた子たちとも自然と話さなくなっていった。
そんな中学生の頃、一人でその駄菓子屋に行ったことがある。なんで寄ろうと思ったのか、理由はわからない(明確な理由なんて多分ない)。
店内に入る。おばさんに「こんにちは」と言って、買い物カゴの役割をする、パステルカラーの半透明の小さなトレイを持つ。駄菓子のバリエーションも、よく来ていた頃と何も変わっていなくて、少し不思議な安心感を覚えた。
小学生の頃は、もらった小銭を握りしめて駄菓子を選んでいたので、手の汗で小銭の成分?が出て、手からは毎回、なんとなく銅の臭いがしていた。中学生になって行ったその日は財布の中に小銭を入れていて、お会計をするときに自分の持っている残金を知った。好き勝手買い物をしても平気なようになった、ということだ。もちろん手から銅の臭いがすることもなく、こんなところで小学生の自分と今の自分との差を感じるものなのか、と思った。
お会計をするとき、おばさんが小学生の頃の私を覚えていて、なにか話かけてくれた。しかし、なにを話してくれたのかは全く覚えていない。たしか一言二言で、昔よく来てくれたよね、とか、そんなニュアンスのことだった気がするけれど、書いていてしっくりこないので、多分違う。でもそんな感じのことだった気がする。

小銭を握りしめて通っていた時代から、財布で自分のお金を管理するようになって、今ではのれんがいつ替わったのかわからないくらい、近くの道も通らなくなった。今、おじさんとおばさんが、昔と変わりないくらい元気なのかもわからない。たくさん通ったあの駄菓子屋に、時間のある時にまた行ってみたいと思う。